SPECIAL INTERVIEW

【連載】井上尚弥選手スペシャルインタビュー Vol.1

SPECIAL INTERVIEW 【連載】井上尚弥選手スペシャルインタビュー Vol.1

五輪出場を逃した、あの時の悔しさが
今の自分のボクシングに生きている

高校時代に史上初のアマチュア7冠を達成。2012年プロ入り後も、日本最速となる8戦目で2階級制覇を成し遂げるなど、ボクシング界の歴史を常に塗り替えてきた井上尚弥選手。その勢いはとどまることを知らず、2018年5月には、初回KO勝利で日本最速3階級制覇を達成、10月に始まったトーナメントWBSS(ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ)バンタム級第一戦では、わずか70秒でKO勝利を収めるなど、旋風を巻き起こした。正真正銘の“Monster Naoya Inoue”として海外からも絶賛される彼自身のこれまでの人生やボクシングへの想い、そして強さの秘訣など全3回に渡ってインタビュー。第1回目の今回は、子ども時代のボクシングとの出会いからプロ入りまでの挫折や葛藤の日々をお伝えします。

「やるなら、やる。やらないならやらない」。
メリハリが父の一番の教え

井上尚弥選手がボクシングを始めたのは、父である真吾さんの影響だった。
明成塗装という塗装業を営みながら、アマチュアでボクシングに熱中していた真吾さん。
その姿は子ども時代の井上選手の目にどう映ったのか。

自宅の一部屋がトレーニングルームになっていて、大きな鏡と筋トレする器具が置いてありました。父がジムに行けない時は、いつもその部屋でトレーニングをしていて。汗を流し、ひたむきに練習する父の姿を見ていて、子どもながらにカッコいいなと感じました。それが幼稚園の時で、少しずつボクシングをやってみたいと興味を持つようになりました。実はその頃、クラブでサッカーをやっていたんですが、小学校に上がる時に「サッカーとボクシング、どっちをやろうかな」と考えて、「やっぱりボクシングにしよう」と思ったんです。父がめちゃくちゃ真剣にボクシングに打ち込んでいたので、その姿を見ていたのが一番大きかったと思います。

「やるなら、やる。やらないならやらない」。メリハリが父の一番の教え 「やるなら、やる。やらないならやらない」。メリハリが父の一番の教え
――最初の頃はどんな風に練習していたんですか?
小学校1、2年ぐらいまでは週に2回、ボクシングジムに通っていました。父が仕事がない時は家で練習を見てもらったりして。今、ボクシングをやっている小学生は毎日ジムに通う子も多いので、当時の僕よりずっと練習しているんじゃないかなと思います。
――お父さんは、練習中など厳しかったですか?
いやぁ、厳しくはなかったですね。練習もハードじゃないですし、家でも「普通のお父さん」という感じで。うちは家族みんな仲が良くて、友達みたいな感じなんです。ただ、子どもの頃によく父に言われたのは、「やることをやってから遊びに行け!」という言葉でした。家では姉、弟、自分ときょうだい一人ひとりに、掃除や洗濯干しなど家の手伝いを割り当てられていて、それをサボって遊びに行くとすごく怒られたんです。ボクシングの練習でも、集中してなかったり、気持ちが入ってなかったりすると厳しく注意されましたね。「やるならやる、やらないならやらない」。父自身がオンオフの切り替えやメリハリを大事にしていたので、その点はすごく鍛えられたと思います。
――それが尚弥さんの試合での集中力に繋がっているんでしょうね。ボクシングの初試合はいつでしたか?
小学6年生の時です。今でも覚えていますが、学校で避難訓練があった日に親が迎えに来て、その帰りに「試合、申し込んでおいたから」といきなり言われて。「え~!?」とびっくり。僕自身、試合に出るという目標を立てて練習していたわけじゃないので、もう試合と聞いただけで緊張が走りました。初めて相手と対戦するので、試合当日は恐怖感でいっぱい。初戦の相手は中学2年生で僕より少し身体が大きかったんですが、自分の右カウンターで相手が鼻血を出してしまって、あっけなく終わってしまいました。
――初試合からもう実力を発揮されていた、と。
あの時は、「なんで勝っちゃったんだろう」という感じでした。「自分って強いのかも」なんてことも一切思わなかったです。それから全国のジムが主催しているキッズのスパーリング大会に出場するようになって、父や弟、従兄弟と一緒に全国を回るようになりました。

地元の神奈川をはじめ、東京、茨城、埼玉、大阪など全国各地の大会に出場し、勝ち続けた。中学に入ってからもその生活は続いたが、「自分のボクシングにまだまだ自信が持てなかった」という。

高校に入って、インターハイや国体に出場して、優勝するようになってから、だんだんとプロボクサーへの道を意識するようになりましたね。

「やるなら、やる。やらないならやらない」。メリハリが父の一番の教え 「やるなら、やる。やらないならやらない」。メリハリが父の一番の教え

ボクシング人生の一番の転機は、
ロンドン五輪出場を決める最終予選

――大会で優勝するにつれ、ご自身の実力に自信を持つようになったと。
そうですね。実は高校にボクシング部がなかったので、高校生の公式試合に出るために学校で新しく部を立ち上げさせてもらい、自分たち家族で練習や試合に臨んでいたんです。いわば部員は自分たち家族だけ。でも、全国大会に行くと、学校の名前を背負った選手たちが大きな声援を受けて闘いに挑んでくるわけです。しかも勝ち上がってくる選手はみんな実力者ばかりですから、それ以上に自分は練習を積み、しっかりと心構えを持って挑まないと決して勝つことはできません。だから誰よりも真面目に、たゆまぬ努力をし続ける。その時間が確実に自分の自信になっていったし、結果にも繋がったんだと思います。
――勝つためには練習だけではなく、「心構え」も大事になってくるんですね。
心構えやマインドが一番大事だと思います。学生だと遊びたい盛りだし、ついついサボりたくなる時もあると思うんです。実力があって練習を積んできていても、普段の日常生活に気のゆるみや隙があると、いざ勝負の時に弱さがふっと出てしまう。そういう選手も見てきたので、自分も足元をすくわれないように、勝負に向けてぬかりなく日々を送ることを心がけていました。
――お話を聞いているだけで身が引き締まりますね。当時の試合で印象的だったことはありますか? 

実は国内の大会で2敗、海外で4敗しているんです。特に海外の選手は練習してきた環境も体格も全く違うので、対戦しづらいというか……。日本人にはない角度でパンチが飛んでくるんですよ。最初はそれに戸惑いましたし、これまでのやり方では通用しないと痛感しました。

これまでのボクシング人生やプロ入り後の試合も含めて、負けたのは10代最後の一時期だけ。
初めての挫折を味わうとともに、その経験が大きな糧になったと語る。

負けた時は相当悔しかったですよ。でも、それ以上に自分の課題がはっきりと見えた気がしました。一番、自分にとって転機になったと言えるのは、ロンドン五輪出場をかけた最終予選の試合です。相手に僅差で負けてしまったんですけど、当時は「18歳という年齢でオリンピックに挑戦できているんだから、それだけで凄いことだ」と、心のどこかで思っちゃってたんですよね。それが練習時にほんの少しの“気のゆるみ”として出てしまっていたし、当日の試合でも気負いすぎて力んでしまった。もしあの時、自分のボクシングが出来てたら、勝てていたなと思うと本当に悔しい。同じジムの先輩の清水聡さんや村田諒太さんがロンドンに行って、自分は置いてきぼりになってしまった。自分も出場してメダルを獲れていたかもしれないと思うと、やっぱり辛かったです。

――4年後のリオは目指そうと思いましたか?
はい。リオに行く自信はありました。ただ、その時はもう22歳になっているし、あと4年アマチュアでやり続けて、もし金メダルを獲ったとしても、名誉にしかならないなと思ったんです。だったら、プロに行ってチャンピオンになるほうが自分自身の心が燃え続けられる。その時、ちゃんと「職」として、プロボクサーの道に進もうと決めた瞬間でもありました。
ボクシング人生の一番の転機は、ロンドン五輪出場を決める最終予選 ボクシング人生の一番の転機は、ロンドン五輪出場を決める最終予選

そして2012年7月。19歳でプロ入りを果たした。
所属しているジムの大橋秀行会長が入門記者会見でこう言った。
「井上君は何年、何百年に一人というレベルではなくて、怪物です」
そこからモンスター・井上尚弥の新たな闘いのステージが始まったのだ。
次回は、プロとして日々どのように心身を鍛え、試合に挑んでいるのか? 詳しくインタビュー。ぜひお楽しみに!

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◎取材・文

伯耆原良子(ほうきばら・りょうこ)
フリーライター・エッセイスト。早稲田大学第一文学部卒業後、人材ビジネスを経て、日経ホーム出版社(現・日経BP社)にて編集記者に。2001年に独立後、雑誌や書籍、Web等で執筆多数。企業のトップから学者、職人、芸能人まで1500人以上に人生ストーリーや仕事観をインタビュー。